三十日

 昨日は、今年一年に屯してきた喫茶店をめぐり、いつも通りの過ごし方をして帰ってきた。特に仲良くしてるわけではなく、ただ行くだけだからいつも通り。でも周りの雰囲気はちがって、座ってる横にキャリーケースを置いて何かを待っていそうな人が多かった。そういうところに年末を感じた。

 今年は、いくつかのことに挫折した一年だったし、それらを受け入れようとした一年だった。今日あちこちオードリーを見ながら、私は来年の目標とかどうしようかとか考えてみたものの、今年のと変わりようがないな。今年やりたかったことがうまく行っていないから。

 でもそれで落ち込んだのは7月ぐらいだし、ゲームとかやって人と話して、時間が経つと、ショックが薄れてきた。あと冬、私は無意識に自己否定する機会を探してるのかも、ってことにも気づいたので、それによっても薄れてきた。

 だから今は、調子良いということはなくても、まあやれるときにやるしかないとは思ってるし、そもそもの動機づけのやり方も気をつけて変えていかないとな〜と思う。それぐらいだな。ここで気張ってみせても良いことない。ぼちぼちやる。

 最後になりますが、よいお年をお迎えください。

日記

 日記を書かないと日々があったか分からなくなってくる。

 昨日は吾妻橋付近に行った。寒波が来てたらしいけど、予報も何も見てなかったので寒波を感じなかった。寒さに強い体なんだと思う。

 最近あんまり言葉を発したいという気分にならない。そういうこともある。

今年唯一のクリスマスっぽい写真
いつかここでダラダラしたい
人かなりいなかった
私が近づくと私から遠ざかろうとするために、遠くの方がギューギューに詰まりだしたのがかわいかった
全部おそれいってる

カノ

 12月22日。晴れ。比較的あたたかい一日。朝起きたらとりあえずベランダに出てみる。奥の半分ぐらいが明るい。通行人を見て、昨日読んだ『明日、私は誰かのカノジョ』をぼんやり思い出す。

 この漫画は若い女性に人気らしくて、今の時代に女性からかっこいいとされる人物像ってこうなのか、と面白かった。

 何巻かずつで主役が分かれるんだけど、それぞれに新しさを感じた。彼女たちは仲良し三人組で進んでいくみたいな生き方はしないし、かといって個人と個人が嫉妬とか憎悪で真正面から対立するわけでもない。

 話の展開も気になった。それぞれに辛かった過去があるにはあるけど、そこに重点は置かれず、あくまで現在の彼女たちが外づらに対する責任を引き受けようとする姿勢について強めに表現されている。

 あと、登場人物が能力や性格でキャラ付けされるのではなく、それぞれの立場でどう意地を見せるかでキャラが出ている感じがする。その辺りにかっこよさがあるなと私は思った。

 私は過去のことを軸に考えるのが好きだけど、今後どうしていたいのかを軸に考えるのはほんと大事なことだと思う。まだ途中までしか読んでないのでこれからどうなるか分からないけど楽しみ。

 朝食は昨日のささみの味噌汁。昼は冷凍食品の坦々麺。夜はツナマヨおにぎりと味噌汁。作業したし出かけた。喫茶店とでかい本屋。全ていつも通り。終わり。

つま

 12月21日。晴れ。13時に起きる。寝過ぎた。やばい。昨日寝る前に本読みすぎた。昼は一昨日のケンタッキーの残り。夜は卵かけご飯とささみの味噌汁。それ以外はダラダラと作業。嬉しいことといえば体脂肪率が減ったことぐらいの極めてつまらない一日だった。

ゆに

 12月20日。晴れ。午前は勉強。昼は昨日のフライドチキンの残り。午後も洗濯物をたたみ掃除機をかけて買い出しして勉強。15時ごろ筋トレ30分。夜はキムチ鍋を作ったのち読書。西洋政治思想史。ようやくホッブズまで来た。あちこちオードリー見る。タカアンドトシ回。二人を見ていると何となくホッとして、中高生の頃、彼らのことをよく見ていたのを思い出した。

 昨日M−1があった。私はゆにばーすというコンビが好きなので見たけど、ゆにばーすは2回目ができなかった。悲しい。私ははらさんが特に好きだから。

 男女間の友情はあるかについてを今やろうとしたのはすごいけど、ゆにばーす自体がそんなに知名度がない以上、すごいしゃべる男とあんましゃべらない女だ、と思って見られると思うから、そのことの緊張感があって、でもそれを乗り越えるような展開ではなかった感じがした。だから私は二人が出てきてくれて嬉しいな〜と思いながら、一方でヒヤヒヤもした。

 それでも興味が湧いたので今度劇場に行ってみたいと思ったので予約した。私は自分の性について向き合うのがはっきり言ってむちゃくちゃ嫌で、確かでないため、性について意識した上で敢えてやってみせている人たちのことが気になる。

 といっても教訓を得たいのではなく、何にどういう態度の人がいるのか、ただ知りたい。こないだ会った人は何となくみうらじゅんさんから入ったと言ってたし、その前会った人は峰なゆかさんから入ったと言っていた。私もそういう感じで何となくで入ってみたい。

不忍池

 12月18日。晴れていたが寒かった。気温がぐっと下がった。上野に行った。不忍池をぐるっと一周して、好きな喫茶店をふたつまわった。不忍池は夏もいいけど冬も好き。終わり感がある。

 こないだTwitterで結婚報告をしたらDMで声をかけてくれた人がいて、その人と会った。会ったことない人と会うっていうのは、大学生の頃によくやっていたけど、しばらく勇気が湧かずやってなかった。

 勇気が湧かなくなったのは、私が会ったことない人との関わり方・距離感をわからなさすぎて、相手にも私にも無駄なダメージを与えるようなことが次第に増えていったから。

 今なら大丈夫になったとは全く言い切れない。でも会ってもらえて嬉しかった。誘ってきてもらえることがとても嬉しい。それが分かっただけでも良かった。

 初対面の人と二人で話すのは久しぶりで、その人の話を聞くのが楽しかったし、私が初対面の人に自分の話をするときにそうまとめるんだなっていう、自分に対する発見もあった。

 帰る17時ごろには真っ暗になっており、上野駅まで行く道沿いにはなんか柔らかい電飾の光がはりめぐらされていた。柔らかい電飾の光と見るとクリスマスを意識させられる。もうすぐクリスマスになるのだったらもうすぐ2021年も終わるんだろうな。早。今日はよいお年をって言うべきだったな。

 最寄り駅に着いたら無目的に1時間ぐらい散歩してから帰宅した。さすがに寒かった。

日記

 12月17日。雨のち曇り。胃腸がこのところ弱っている。言いたいことがないけど日記を書く内なる流れを失いそうなので書く。

 『貧民の帝都』という本を読んでいる。近世・近代の貧民がどのように救済されてきたか(されてこなかったか)という話。著者はその近世・近代のことについて、怒り口調で、まるで現代のことであるかのように、許されないとか書いている。

 それが何でなのかが気になってたけど、ひとつ思いついたのは、現在に残っている差別につながる話を詳細に書くにあたり、怒りに任せて紹介しているという体をとってるんだろうか。許してはならないということを強調するために。なんか一度そう思うとそうでしかないような気がしてくる。

 中身としてはタイトル通り、東京の各地にあった救貧施設などについて紹介される。

 本によると、江戸城が無血開城されたあとの1ヶ月半ぐらいは空き家になっていて、そこにいろんな人が忍び込んで、泊まってみたりしていたらしい。楽しそう。もし明日から皇居が空き地になるとしたら1泊してみたいけど、天皇の寝床は最強の人間が使うことになるのだろうから、松の間で雑魚寝するのが関の山だろうな。

 冷え込んできた。さっきまで風が強かった。遮熱をかなりやったのに通り抜けてくる。明日は出かける。

よかった本2021

 2021年に読んだ本で、折にふれて思い出すようなもの。4冊・順不同。全部おもしろかった。

1)綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社 2019年)

 私自身がかなり「差別はいけない」と主張するタイプでありながら、そう主張するたびに無力感も生まれて、それがどこから来るのか知りたくて読んだ。

 要約。まずアイデンティティ(→民主主義 →集団)とシティズンシップ(→自由主義 →個人)の克服しがたい対立について欧米各国の例を挙げながら説明したのち、戦後日本の歴史問題についても、戦争責任をどのように負うべきかにおいてその対立が見てとれるとする。

 そしてハラスメント防止の話から、不快だと感じるものが人によって違うのはなぜかという話にうつり、「認知バイアス」や「道徳基盤理論」の考え方を紹介する。それらを踏まえ、人種や性別の差異にもとづく合理的差別のあり方や不平等を是正する運動の難しさを検討する。

 さらに直近の炎上した話題を取り上げ、もし差別が意図的なものでないとみなすのであれば、彼らはその責任を取りきれないのだから、自律的な個人の意志を前提にする社会をやめていく選択肢もあるだろう、とする。

 個人の意志をないものとするか、ポリコレによる私刑を許し「責任のインフレ」に耐え続けるか。そのどちらも望まないのであれば、著者は、相手の責任を追及する前に、まず不快さを言語化してみるということをやるべきではないかと提案する。

 最後、民主主義(アイデンティティ)と自由主義(シティズンシップ)の対立の調整を果たすものとして、天皇制についてもまとめている。

 感想。いつも私が読む本と比べてかなり慎重に書かれていて、引用が多く、鉤括弧が多く、主張も簡単には見えづらい。だから読むのにすごく時間がかかったけど、自分が社会問題について不快になったときや、自分の主張がなぜ通らないのかもどかしさを感じるときに、それを落ち着いて整理するための材料がたくさん整理されていて、ありがたかった。私も私ながら粛々と勉強していこうという気持ちにもなったし。

 あと、他者に何か道義的責任を負わせるのは難しいんだろうなと思う一方で、そのことがわかった上でも私自身の意志は尊重されてほしいし、その責任は取りたいと思った。

 で、自分の意志を尊重されたいからという理由で他人の意志を尊重するとして、そのときに他人の責任を追及してむやみに私的制裁を下しさえしなければ、それで良いのだろうか。責任ってむずかしーと思った。

書き込むのが嫌でこんなふうに付箋でやってきてたけど、あとで付箋をもとにして振り返るのダルいし、どうせ売らないので、書き込んでいったほうが楽とわかった

2)宇野重規『トクヴィル』(講談社学術文庫 2019年)

 西洋政治思想のことが分からないので、人物から追うやつで短いのがいいと思って、これになった。宇野重規さん文章が読みやすいし話もわかりやすい。

 トクヴィルは、フランス革命のあとの権力基盤の不安定になった貴族のおうちに生まれたフランスの政治思想家(1805-59)。フランスよりはアメリカで有名で(今は特に「知的右派のお気に入り」で)、アメリカの大統領演説では必ずと言っていいほどその著作が引用されるらしい。

 彼は革命に嫌悪感のあった貴族の出にもかかわらず、フランス革命の様子を見て「デモクラシーは歴史的必然として受け入れなければならない」と考えて、アメリカに出向き、アメリカの政治のやり方をデモクラシーの成功例としてフランスで紹介した。

 何が成功してるのかの一例として、デモクラシーは個人化や多数の暴政をどうしても起こすけど、アメリカでは、それらを防ぐために各地で人々が積極的に結社して中間団体を生んでいることを彼は挙げていた。それがとくに私には印象的だった。

 これまで私は何となく個人主義が一人ひとり徹底できれば社会はよくなると考えていた。でもさっきの本とかこの本を読んで、あとこないだの選挙結果も、コロナ禍によって明らかに孤立させられた人間に会うなんて機会もあった。

 これらの出来事から、自分の寿命に比して、個人という存在を過剰に信頼していた気がしてきた。一人ひとり同じだけの人権があるはずだといわれたときに、不安になる人も少なくなさそうなのだ。だとしたらどうするのがいいのか。生活における価値観が変わる読書だったと思う。

振り返るときの楽さを重視しすぎた例

3)ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮クレストブックス 2012年)

 小説。嫌なやつが主人公。私も嫌なやつなので嫌な主人公のせいで嫌なことを思い出しながら読んで、読めば読むほど嫌な思いをした。記憶と記録の話。面白かった。嫌だった。

4)大竹文雄『競争と公平感』(中公新書 2010年)

 今年は経済のことを知りたくていろいろ入門を読んだ中で、一番うざくなくて、読みやすくて、面白かった。経済学がデータをもとにしてものを考えるというときのやり方が、自分では思いつかないことで、刺激的だった。データ自体が研究の材料になる前提で作られてるってのもあるんだろうな。

 今年は戦後史関係の新書もいくつか読んで、全部ではないけど己の誠実さを強調するあまり説明が足りないのが多くて、いいからそういうの‪⋯と思ったりしたんだけど、そういう遠慮がないのは経済学のいいところだなと思った。

 本は、一章が競争について、二章が公平感について、三章がそれらをもとにした働きやすさについて考えるもの。

 全体を通して相関と因果の違いについて強調しながら、社会問題や政治のトピックについて「最低賃金を上げすぎるとレジが無人になって雇用が減る」とか「ワーカホリックを抑制する理由は他の人員に迷惑をかけていない限り、ない」とかを示して、淡々と深めていく感じ。

 私は経済について知らなすぎて、少し経済について学ぶ機会があったとしても、それが日常に生かされてこなかった。だからそういう時事に関心を持とうとしては挫折してきたけど、この本で「この条件を設けるとこういう結果になる」っていう判断のいきさつを丁寧に教えてもらった感じがするので、色々とっかかりになった。街づくりゲームをやりまくってたこともあって面白く読めた。

 ■

 4冊は以上。なんか最初の本に時間がかかりすぎた。付箋だけで何が大事と思ったか思い出すのはつらい。

 よかった本を見るに、私は「私ってバカだな〜」と思えた本をよかったと思う。私には、例えば日常において「自分のこういうところ嫌だな」と思うことがあったら、その “こういうところ” をできるだけ細かく知って、いつでも心から切り離せるようにしておきたいという欲がある。

 多分そういう態度が滲み出て冷笑とかいわれるんだろうし、ネチネチ鬱陶しいとか思われるんだけど、読書している間はそれで楽しいんだからやむをえない。

 ずっと浅く大二病なんだと思う。もう黙ってやってればいいよ。性格は20歳から変わらないらしいしもう20代が終わるし。みっともないけどしかたない。

 来年も面白い本にたくさん出会えたらうれしい。

ムファサ

 12月12日。昨日日記を書いたあと、ライオンキングで、夜の草原でシンバがムファサから「思い出せ…」と言われるシーンがありますが、私にとってのそれが起きて、平常心を取り戻すことができた。

 昨日落ち込んでいたのは、自他の区別だけでなく他他の区別もつけるべきなのに、自分のことばかり考えすぎていたせいで、他他を曖昧にする態度を、長い付き合いの友達に取ってしまったからだった。私自身がそんなふうにされるのが嫌なのに、まさに同じことをしていると思って情けなかったし、このまま私は自暴自棄的に今まで大切にしてきたものも全て終わらせていくのではないかとゾッとした。

 落ち着くために自分の悪かった点を整理して、さらに落ち着くためにしばらくモルカーを流しながら筋トレをしたあと、別の友達に電話させてもらったら、ありがたいことに私にとってのムファサみたいな現象が起こった。それで今の今から「行くぜ」と言う感じで過ごすべきだと思って寝て、起きた。

 だからといってスカーと対決しに行ったりせず、今日は、洗濯・掃除をして、買い物に行って、結露を防ぐための作業をして、なんとなく大掃除する感じになっただけの日だった。でも夕方に勉強してたときとか、雑念や悩みがガンガンに主張してくることが減ったような気がする。減らすべきだと思えたからだと思いたい。

 ほんとよかった。

短い

 12月11日。いい加減このことを考えるのをやめるべきだという機会があった。会ってくれた友人にくだらない時間の使わせ方をしてしまい、ただただ私のことがみっともなく、情けなかった。自分のくだらなさにうんざりする。大事にしたいものが大事にできなくなるのは嫌だ。できなくなりそうな日だった。