3月3日 朝と昼の光、戦争

 今日はいつものように家に一日中引きこもっていた。それでも光だけは入ってくるのだけど、朝の光も昼の光もとっくに春の雰囲気だ。玄関の近くにある窓はすりガラスで、朝はそこから布団にいる私のところまで光がさすんだけど、その光がもう、朝からオレンジっぽくてやわらかい、いかにも「お前たち生命を元気にしてみせます」といったような光の具合である。昼は「光って部屋中にみなぎっていくものですから」とまるで普通のことみたいに部屋に入り込んでくるような光になる。じっさい普通のことなので何も悪くはないんだけど。でも私は冬の光が好き。冬の光の方が親しみを向けてこなくて安心する。私とお前が他者であるということがお互い分かっているような感じがする。

 ある新聞の速報によると、今日の1時(モスクワでは2日の19時)、ロシアのラブロフ外相が中東カタールの衛星放送局アルジャジーラのインタビューのなかで、第3次世界大戦が起これば「核戦争以外にない」と述べたそうだ。そんなわけないけど、ありえたらどうしようと不安になる。だってウクライナ情勢をけっこう前からぼんやり追っていたのに、さすがに侵攻なんかしないでしょうと正直思っていた。ほんとうに戦争が全世界に広がってしまうのかもしれない。

 私が日本に住んでいるからだろうけど、戦争のことをよく思い出す季節は夏だ。思い出すといっても私は体験したわけじゃないし、本やテレビや映画なんかで知ったことを思い出すだけだけど。島国だからなんだろうか。特に、太平洋戦争を取り上げる作品では、いつも兵士は日焼けして黒光りしているし、汗だくだし、蚊に刺されているし、泥まみれであるように思う。兵士が小さい島にいるなら主張の強い花が咲き乱れている。住民が見上げた次の瞬間の、原子爆弾投下のシーンは真っ白になる。そういったことから、戦争を考えるときには眩しくなるようなイメージがある。

 だから新聞を読んだり光をぼんやり見たりしてると、自分の明るい光に関するそういう感覚をもとに不吉な連想をしてしまう。でも明るい光は悪くない。戦争を起こす人間だけが悪い。とにかく戦争は全世界でいつも全部まったくやめてほしい。

3月2日 春キタ

 おととい越生(おごせ。埼玉で川越より西)に行ってきて、山や川沿いをゼェゼェ言いながら歩いてから、ようやく春の天気とかを受け入れる状態になった。私は春のフロアが沸いている感じを受け入れるのに時間がかかる。しばらく「ロード中‪⋯」で固まっていた。でももういい。春キタってぐらいの軽い気分になれた。梅とかを見たし。

 今日は、ただの平日だけど、人参を花にした(更新!)し、まあまあやるべきことも捗った。人参を花にするのは難しいけど、やってるうちに自分の包丁の握り方が変わってきた感じがしてきて嬉しい。料理の練習をしている感じがする。

 昨日まで、ここで毎日4コマぐらいのを上げてみていたのは楽しかった。きわめて単純なことしか描いてないのに、描いた翌日の自分が訂正したくてたまらなくなる、という箇所が毎日あった。自分より前の走者(自分)が必ず転ぶつらいリレー。

 やっぱり1日で描きあげる方が楽。でも自分で批判するというのは正直あんまりやらない(一気に集中して終わらせるものは達成感がすごく、普段はそれだけでほれぼれしてしまうため…)ので新鮮で楽しかった。

 終わりです。なんか前みたいにずっと同じ形式で日記書くのはやめようと思う。ただでさえ自分の心が閉じていってるのを、加速させる感じがするため。

2月1日 2月だ〜

 2月1日火曜日。晴れ。最近ずっと晴れているような。2月くるの早い。朝はなし。昼は昨日の鍋の残りと米。夜は米とコンソメスープ(キャベツ・人参・鶏ムネ・ブロッコリー)。昨日寝る直前に筋トレをしてみたら朝だるかった。夜ご飯の前ぐらいがちょうどいいんだろうな。

 今日もやることをやった。最近嫌なことを思い出しても(フン‪⋯また私の脳が快楽物質がほしくて傷つきたがっているな‪⋯)と思えるようになった。アーとか言わなくなり、目をカッと見開いたらそれで済む。成長ですわ。

 昼過ぎ買い物。一段階ヒラヒラのダウンにしたけど問題なかった。

 夜「バンクシーの正体とは?!」っていうドキュメンタリーを見てた。壁とかにグラフィティーアートをやっている人らしく、絵が高価で売れる人らしい。壁だったら公有・私有は問わない。だから自分ちの壁に描かれた人がそれを切り取って売ろうとするんだけど、そうするとその人に対して庶民から庶民として「庶民に鑑賞の機会を!」とか批判がなされて炎上するらしい。

 私は絵画鑑賞の技術がなくてバンクシーのすごさを読み取れないので良さがわからない。ステンシルって年賀状でやったわ〜程度の感想しかない。だから描かれたら私も絶対売ると思う。まあ社会を巻き込んだパフォーマンスが面白いってことなんだろうけど、炎上を使って知名度を上げること自体に嫌さを感じる。ある種私は古い人間なんだろうな。

 2020年の2月1日。自分の日記だったら何言ってもよくていい。近衛文麿の伝記を読んでいたらしい。

実際、戦争だぞってなったとき、地震のときにそうであるように、自分の知り合いの無事だけをまず考えてしまうと思う。彼らの無事が確認されてからようやく、赤の他人の無事を気にすることができると思う。自分の知り合いが無事でなかったら、無事であり続けることが難しそうと感じたら、ちょっとツイッターにそのまま書いたら炎上しそうだなと思うようなことを普通にやってしまうと思う。それどころか本当はダメなんだけどね、と言いながら触法するかもしれない。たぶんそういう行為に及んだら、どこかの誰かが困るのだというのは分かるんだろうけど、それでもやめられないだろう。そう思うと、やっぱりもう戦争だぞってなる前にどうにかするしかない。たとえ鬱陶しい感じになるとしても、ちょっとしたことじゃないかと言われてるとしても、政治のありようについてグジグジネチネチ言っていくべきなんだと思う。予算で何がなされているかとか、資料保存がちゃんとなされているのかとかって、なんか話題にするのはめんどくさいというか、職場の会議で議題に出されたりしたらつまんなくて自分の空想の時間にしてしまうと思うけど、それじゃだめなんだと思う。たとえば会議で、うわ、早く帰りたいのにこいつなんか主張しだしたぞ、という目を向けられるとしても、そこで踏ん張るのが大事なんだと思う。

 2年前の自分はかなり真っ直ぐに、正しければ聞いてもらえると信じていたし、職場への情熱がものすごかったな〜と感じる。職場への情熱と社会への情熱がつながっていた。今この日記を読んで「コイツ青臭いな〜」と切り捨てられるほど距離を取れてはないけど、でもそういう態度はうまくいきにくいからやめとけ、とは思う。

 あと、この頃にはもう、親密さは排他性なしに成り立たないというのを受け入れようとしているようで、私って思ったより変わってないなと思う。何というか速度が足りないな。

 まあでも今は人との関わり方ってかなりどうでもいい。心の底からどうでもいいと思う。脳の人間関係について考えるための部分が焼き切れている。