2月1日火曜日。晴れ。最近ずっと晴れているような。2月くるの早い。朝はなし。昼は昨日の鍋の残りと米。夜は米とコンソメスープ(キャベツ・人参・鶏ムネ・ブロッコリー)。昨日寝る直前に筋トレをしてみたら朝だるかった。夜ご飯の前ぐらいがちょうどいいんだろうな。
今日もやることをやった。最近嫌なことを思い出しても(フン⋯また私の脳が快楽物質がほしくて傷つきたがっているな⋯)と思えるようになった。アーとか言わなくなり、目をカッと見開いたらそれで済む。成長ですわ。
昼過ぎ買い物。一段階ヒラヒラのダウンにしたけど問題なかった。
夜「バンクシーの正体とは?!」っていうドキュメンタリーを見てた。壁とかにグラフィティーアートをやっている人らしく、絵が高価で売れる人らしい。壁だったら公有・私有は問わない。だから自分ちの壁に描かれた人がそれを切り取って売ろうとするんだけど、そうするとその人に対して庶民から庶民として「庶民に鑑賞の機会を!」とか批判がなされて炎上するらしい。
私は絵画鑑賞の技術がなくてバンクシーのすごさを読み取れないので良さがわからない。ステンシルって年賀状でやったわ〜程度の感想しかない。だから描かれたら私も絶対売ると思う。まあ社会を巻き込んだパフォーマンスが面白いってことなんだろうけど、炎上を使って知名度を上げること自体に嫌さを感じる。ある種私は古い人間なんだろうな。
2020年の2月1日。自分の日記だったら何言ってもよくていい。近衛文麿の伝記を読んでいたらしい。
実際、戦争だぞってなったとき、地震のときにそうであるように、自分の知り合いの無事だけをまず考えてしまうと思う。彼らの無事が確認されてからようやく、赤の他人の無事を気にすることができると思う。自分の知り合いが無事でなかったら、無事であり続けることが難しそうと感じたら、ちょっとツイッターにそのまま書いたら炎上しそうだなと思うようなことを普通にやってしまうと思う。それどころか本当はダメなんだけどね、と言いながら触法するかもしれない。たぶんそういう行為に及んだら、どこかの誰かが困るのだというのは分かるんだろうけど、それでもやめられないだろう。そう思うと、やっぱりもう戦争だぞってなる前にどうにかするしかない。たとえ鬱陶しい感じになるとしても、ちょっとしたことじゃないかと言われてるとしても、政治のありようについてグジグジネチネチ言っていくべきなんだと思う。予算で何がなされているかとか、資料保存がちゃんとなされているのかとかって、なんか話題にするのはめんどくさいというか、職場の会議で議題に出されたりしたらつまんなくて自分の空想の時間にしてしまうと思うけど、それじゃだめなんだと思う。たとえば会議で、うわ、早く帰りたいのにこいつなんか主張しだしたぞ、という目を向けられるとしても、そこで踏ん張るのが大事なんだと思う。
2年前の自分はかなり真っ直ぐに、正しければ聞いてもらえると信じていたし、職場への情熱がものすごかったな〜と感じる。職場への情熱と社会への情熱がつながっていた。今この日記を読んで「コイツ青臭いな〜」と切り捨てられるほど距離を取れてはないけど、でもそういう態度はうまくいきにくいからやめとけ、とは思う。
あと、この頃にはもう、親密さは排他性なしに成り立たないというのを受け入れようとしているようで、私って思ったより変わってないなと思う。何というか速度が足りないな。
まあでも今は人との関わり方ってかなりどうでもいい。心の底からどうでもいいと思う。脳の人間関係について考えるための部分が焼き切れている。