3月7日 うわー

 今日は人参を切った。かなりうまくなったのではないか。しかしまだ丸くできる余地がありそうだし、表面のガタガタも気になる。なお「実録 にんじんを花にする」の方にも更新。

 朝からテレビのニュースで、2つ、自分の子供を虐待しつづけたのち、結局殺害した人間の逮捕について知って、普通に気分が悪くなった。子供側からして最悪なのは言うまでもないとして、そういう人間も含めての社会なのだということについて、やってらんね〜よと投げやりな気持ちになってしまう。

 それは「その人にも切実な事情があったのですよ」とかで社会として認めてあげるべき行動ではないだろう。でもだからといって、死刑というのも、誰かが執行させられる点や、人間が人間によって命を落とさせられる点においてよくない。

 そういう折り合いみたいなものが必要なのはわかっているし、うんざりするからと言って折り合いをやめろとは思わないけど、やっぱりうんざりだ。殺されたらその人間は生きることができない。そんなこともわからない、もしくはわからないフリをするやつがいることについて、受け入れがたい。

 嫌だな〜。でもこれは、全世界に対する自分の手の及ばなさについて不満を感じているだけという気もする。それは、日頃の自分が自分としてできることがあまりにも少なすぎることについて、焦っているからかもしれない。

 まあそう考えたところでつらいものはつらい。人参を切るのをうまくなったりしよう。

3月4日 なげー

 今日は休みとしていたのに、政治のことを漫然と検索してしまった。そういう日もある。新聞記事を読んで絶望的な事態を想像するところから始まった。昨日の日記で「まさかそんなことにならないといいけど」と書いていたことに向かって一歩進んでしまったのではないか(わからんけど)。私はつまらない大学生みたいなフリをやりたかったわけではない。

 そのあとウクライナのゼレンスキー大統領が自撮りみたいに撮っている画質の粗い映像を見て、原子力発電所が包囲されている白黒の映像を見て、ウクライナの女性がジョンソン首相に泣きながら訴えるのを見て、日本の元首相がなんか言っとるのをコメント欄が謎に絶賛してるのを見て、首相がサラッと否定するのを見て(※これコメント欄では「頼りない」とか言われていたが、私は今の首相が元首相でなくて岸田首相でほんとよかったなと思う)、なんか知らん議員のZoom画面に猫のしっぽが割り込んでくる映像も見て、イギリスの元気な議長が Order Order 言ってるだけの映像を見たところで YouTube はやめて、あとはソ連の歴史についての本を読んでた。

 下斗米伸夫『ソビエト連邦史』。この本自体はおもしろい。革命のとき、労働者はロシア人口全部のうち2%程度しかいなかったらしい。それで、レーニン死後の党内部の抗争を見ても、共産党は議論の内容や人々の生活やなんかよりも人事権が重要な組織であり、結局共産党の人たちは叙任権闘争をやっていたにすぎない、という見方があるらしい。そうかも。しかしそんなことで何が共産主義革命やアホくさいと思う。今も共産主義が抜けただけで体制自体はそんなに変わってないんだろうか。

 とにかく、面白い本でなにか詳しくなったような気分にはなれても、いつものような満足感はない。しくみや流れがわかったとして、何になるんだろうとかってつい思ってしまう。まあいつか何かに役立つだろう。

 インナーを長袖から袖なしにして薄いセーターで出かけた。さすがに少し寒いけど、まあ歩いていたらあったかくなる程度。本屋に行ったら『物語 ウクライナの歴史』が山積みされていて嫌になった。正しくないとか言いたいわけじゃなくて、ただ私が嫌になった。YouTubeでもおすすめ動画に「何分かでわかるウクライナの歴史」的なのが並んだのを思い出す。はえーよ。いやいいんだけど。嫌いだわ。

 帰り道でポテチとランチパックを買ってきて食べてチキンラーメンも食べた。終わりの日。

3月3日 朝と昼の光、戦争

 今日はいつものように家に一日中引きこもっていた。それでも光だけは入ってくるのだけど、朝の光も昼の光もとっくに春の雰囲気だ。玄関の近くにある窓はすりガラスで、朝はそこから布団にいる私のところまで光がさすんだけど、その光がもう、朝からオレンジっぽくてやわらかい、いかにも「お前たち生命を元気にしてみせます」といったような光の具合である。昼は「光って部屋中にみなぎっていくものですから」とまるで普通のことみたいに部屋に入り込んでくるような光になる。じっさい普通のことなので何も悪くはないんだけど。でも私は冬の光が好き。冬の光の方が親しみを向けてこなくて安心する。私とお前が他者であるということがお互い分かっているような感じがする。

 ある新聞の速報によると、今日の1時(モスクワでは2日の19時)、ロシアのラブロフ外相が中東カタールの衛星放送局アルジャジーラのインタビューのなかで、第3次世界大戦が起これば「核戦争以外にない」と述べたそうだ。そんなわけないけど、ありえたらどうしようと不安になる。だってウクライナ情勢をけっこう前からぼんやり追っていたのに、さすがに侵攻なんかしないでしょうと正直思っていた。ほんとうに戦争が全世界に広がってしまうのかもしれない。

 私が日本に住んでいるからだろうけど、戦争のことをよく思い出す季節は夏だ。思い出すといっても私は体験したわけじゃないし、本やテレビや映画なんかで知ったことを思い出すだけだけど。島国だからなんだろうか。特に、太平洋戦争を取り上げる作品では、いつも兵士は日焼けして黒光りしているし、汗だくだし、蚊に刺されているし、泥まみれであるように思う。兵士が小さい島にいるなら主張の強い花が咲き乱れている。住民が見上げた次の瞬間の、原子爆弾投下のシーンは真っ白になる。そういったことから、戦争を考えるときには眩しくなるようなイメージがある。

 だから新聞を読んだり光をぼんやり見たりしてると、自分の明るい光に関するそういう感覚をもとに不吉な連想をしてしまう。でも明るい光は悪くない。戦争を起こす人間だけが悪い。とにかく戦争は全世界でいつも全部まったくやめてほしい。

3月2日 春キタ

 おととい越生(おごせ。埼玉で川越より西)に行ってきて、山や川沿いをゼェゼェ言いながら歩いてから、ようやく春の天気とかを受け入れる状態になった。私は春のフロアが沸いている感じを受け入れるのに時間がかかる。しばらく「ロード中‪⋯」で固まっていた。でももういい。春キタってぐらいの軽い気分になれた。梅とかを見たし。

 今日は、ただの平日だけど、人参を花にした(更新!)し、まあまあやるべきことも捗った。人参を花にするのは難しいけど、やってるうちに自分の包丁の握り方が変わってきた感じがしてきて嬉しい。料理の練習をしている感じがする。

 昨日まで、ここで毎日4コマぐらいのを上げてみていたのは楽しかった。きわめて単純なことしか描いてないのに、描いた翌日の自分が訂正したくてたまらなくなる、という箇所が毎日あった。自分より前の走者(自分)が必ず転ぶつらいリレー。

 やっぱり1日で描きあげる方が楽。でも自分で批判するというのは正直あんまりやらない(一気に集中して終わらせるものは達成感がすごく、普段はそれだけでほれぼれしてしまうため…)ので新鮮で楽しかった。

 終わりです。なんか前みたいにずっと同じ形式で日記書くのはやめようと思う。ただでさえ自分の心が閉じていってるのを、加速させる感じがするため。

2月25日 ひさしぶり

 しばらく日記を書いてなかった。私は基本的にかなりのおしゃべりだけど、ときどき急にしゃべりたい気分がゴボッと抜け落ちることがあって、それだった。原因はわからないけど、ウクライナ情勢がみるみる悪化していたのが嫌だったのもあるし、ドライブ・マイ・カーを観てじわじわ落ち込んだのもあるし、春になってきたというのもある。

 今日はここ数日の中でいちばん元気だ。朝から何人も安倍晋三がいる夢を見てちょっと面白かった。机で作業してる横に安倍晋三がいて話しかけてきて、ふと後ろを振り返ったらドアの向こうで安倍晋三が営業していたから。あとは外出して元気を出すために髪を切ってもらったりしたけど、サラサラになったとて、と思った。

 あちこちオードリーのバカバカしいほど明るい回をもう1回見よう。

2月17日 二十九、三十

 2月17日木曜日。晴れ。朝はパンと茹で卵。昼は寿司。夜はスープ(人参・小松菜・新じゃが)とささみの梅和えと茹で卵。

飾り切り 地図記号みたいになる

 今日は午前中に出かけて15時ごろ帰ってきた。天気予報では「今季最高の寒気」とか言っていて、確かに風はすごかったけど、遠くを見やるとき目を細めるぐらいには光がまぶしかった。これは明らかに冬の光ではないと思う。

 喫茶店には行かなかったけどほぼいつもの通り過ごした。コーヒーって、今の私からすると徒らに目をバキバキにして腸を傷つける豆の汁という地位なんだよな。とはいうけどいつもの喫茶店は好きだからいずれ腸の方を諦めると思う。

 本屋と古本屋とカラオケに行く。本屋は何も買わなかった。古本屋で数冊。

 あとはカラオケ。大学生のときはあまり口に出さなかったけどクリープハイプが好きでよく聴いていた。ボーカルの声が特徴的というか人の神経を逆撫でするようで、歌詞も何となく清潔ではないから、ためらわずに嫌いだという人が多かった気がする。私は歌詞に共感することはほぼできなかったけど、言葉づかいが面白いし、リズムが気持ちよくて好きだった。

 それで大学生の頃(2014年)に『二十九、三十』という曲が出た。これは挫折しかけててやる気を失いそうなことばかりなのに「逆に行けそうな気がしてきた‪⋯」と繰り返す歌。22歳だった当時はこれも共感できない。軽く「アラサーというのは大変なんスね〜」と受け流してた。

 でも今や私がまさしく29歳だ。今の私からしたら、しかも思う仕事ができていない状況の私からしたら、「状況を整理したところあんまり行けそうじゃないけど、ひとまず『行ける気がしてきたわ』と言ってみる」という態度にすごく共感する。そう言って、そう思っていくしかない狭さが今ある。昔は広かった。

 だからそれを確認するためにカラオケでいつも歌うんだけど、いつも音が高すぎて歌えてない。家で口ずさむときもカスカスの声になる。でも気分がよくなる。絞りだすことで歌詞が自分の感情と混ざったりするんだろうか。

 歌いまくってることで感情が増えたなあと思う。1時間300円にしてはカラオケって良いことが多いと思う。もう誰も行ってなさそうだけどね。終わりです。

2月16日 何もない

 2月16日水曜日。晴れてたか分からないけど暖房はつけなかった。朝はなし(寝坊)。昼はチキンラーメン。夜は米と味噌汁(ごぼう・しめじ・小松菜)とささみとネギ炒め。ごぼうって味噌汁を黒くするときある。味噌汁が黒くなると不安になる。

麺の見た目が子供心を刺激する
焼き鳥屋に行きたくなったので

  なんか最近やる気というか元気があってやることが進む。うれしい。腸の動きが良くなったからだろうか。すべては腸のおかげ。

 昨年の2月16日の日記を見たら、責任をとるとはどういうことなのかとか書いていて、今日の私からしたらうるさかった。3回目のワクチン接種券が来た。明日は休む。今日は終わり。

2月15日 OK

 2月15日火曜日。晴れ。朝はSOYJOY。昼はスープ(キャベツ・ささみ・新じゃが)とパン。夜は同じスープ。 コンソメ味。1キューブを入れたら多すぎるのだろうなと思いながら入れた。

 なんかコンソメって粒のもあるからそれを買えばいいんだろうか。でも粒だと掬わないといけなくなるからな。掬うときのスプーンがちょっと濡れてたら、後でフチの周りにコンソメの粒が固まったりするんだろうな。めんどくさいな。

 今日もいつも通り。昼ごはんを食べながら、ETV特集の谷川俊太郎回をみた。谷川俊太郎が子供の自死をテーマにした絵本を作ったらしく、その制作過程の話だった。

 絵本の下書きから本番に至るまでに絵が直されていく様子が映されて、絵がうまい人の描く線を辿れるの、うれしいな〜、っていう感じで惚れぼれした。私は絵面の好みとか関係なく、SNSで流れてくる絵のタイムラプスを見てるのがすごく好きだ。だからすごく満足した。

 あと最後に谷川俊太郎が「今は意味ばかりに囚われてるけど存在について考えるのが大事」的なことを言ったのがよかった。流れを全部書くわけにもいかないけど、「生きてるならそれでOK」というような価値づけの話ではなく、ものの捉え方の話だったと思う。大事だなーと思った。

 やっぱ「生きてるならそれでOK」も価値づけなんだよな。私は人が生きてること自体を承認したり評価したりするってのは安易にできることじゃないと思う。人間に対してあらゆる価値判断をしてはならないとかは全然思わないけど、一旦、自分とか他人についてただ存在しているだけのものとして捉えるのを通過したい。簡単にいうなよ。終わりです。

2月14日 微かな味

 2月14日月曜日。晴れ。朝はなし。昼はスープ(白菜・椎茸)とパン。夜は同じスープ。Amazonで安売りしてて買った有賀薫『スープ・レッスン』に「調味料は思ってる1/4にしてみよう」的なことが書いてあり、いつもの味覇を1/4にしたら味がとても減った。白菜って特に味が遠くにある感じがする。しかしそういう微かさを楽しむのが乙というもの。

味の微かさを楽しむスープ

 微かさを味わって食べる。できるだけ多くの人間にかっこよく思われたいと思っていたときには、何かダルいなと思っても「こういうスープを食べているうちにかっこよくなるんだッ」と決め込んで突き進めたけど、そういう動機が減った今は本当に楽しめるまで待つしかない。

 今日はなんもない。やることをやった日。

 オリンピックをやっているらしい。

 たまたまつけたテレビでカーリングの人たちの特集がされていたとき、選手の誰かが「運をつかみ取りたいですね」的なことを表明したら、なんか一般人に怒られたのか、インスタのストーリーで【運についてのご説明】というのをさせられている映像が出てきた。しかもその映像は、アスリートに対する過剰な批判を問題化する目的ではなくて、彼女がいかに運をつかみ取りたいのかを強調するためだけにサラッと流されたのだ。

 結構びっくりしたんだけど、もうそういうのはありふれているんだなと思った。自分が知らないし関係ないアスリートが「運をつかみ取りたい」と言ってたとして、しかもそれに何か感想を持ったとしても、私はそれを本人に言うっていう衝動はわかない。それは私がアスリートをアスリートであるという理由で敬っているからではないと思う。多分もっと当たり前に、人とそんな関わり方をしたくないからだ。でももうそれは当たり前じゃないんかなと思った。嫌だな。

2月13日 動いときたさ

 2月13日日曜日。休み。雨。めずらしい。朝はなし。昼はラーメン(マルちゃん正麺)。夜はスープ(かぶ・人参・キャベツ・えのき・海老)。

カブの葉うめー
飾り切り 前回より遠のいたな

 今日は外に出たかったけど雨だったのでやめた。雨ぐらい乗り越えろって考え方もあるけどやめた。平日はいつも部屋にこもってて三日もすれば鬱屈ポイントが貯まるから、だいたい三日に一回で休みにしている。休みはできるだけ外出したいけどしない日もあり、そういうときは本を読んだりゲームをやりまくったりすることで休んだ感を得るんだけど、今日は本やゲームではそれを得られず、ただただ鬱屈していた。

 おととい腸が改善してサイコーって思っていて腸は相変わらず良好なんだけど生理とかがある。なんとなく動かんどこってなる。筋トレもなんとなく上半身というか肩まわりだけで終わらせるので不足を感じる。不機嫌まではいかないけど、自分としての動いときたさに対しての実際の動きが足りなくて、少しフラストレーションがある。今日はそういう日だった。

 動いときたさってどこから来るんだろうな。元々運動とか好きじゃなかったので、きっかけは、前に足首を捻って3ヶ月ぐらい引きずっていたことがあって、そこでケガを防ぐためには体が柔らかい方がいいと聞いてからだと思う。そんなの常識だろうけど、自分がケガしてようやく聞き入れる気になった。それでゆるゆるとストレッチとかをやり出した。

 ずっと「もともと体がカタいから開脚も70度ぐらいしか開かないんスよ」と言って周りにヘラヘラしてきたけど、ストレッチを1年やったら150度ぐらいにはなったし、ケガしなくなるとか少し歩いたぐらいでは疲れなくなるとか、色々うれしい効果があった。

 そういうお得さを実感したから動いといた方がいいと頭で判断してるんだけど、それだけじゃなくて体がウズウズする感覚もある。子供のとき本当に体育のことが嫌いだったので、自分の中の動いときたさに気づくことがなかったけど、今は体育のときと違って自分の体を社会から切り離せるから、そういう感覚を見つけて、取り組もうとするノリが生まれたんだろうな。そう思うとうれしい。

 歳をとっていて、とっていくことにビビりがちだったけど、時が経った分いろいろ操作できるものは増えてると思う。よかったね。終わりです。