





今日は久しぶりに寒めの日だった。雨だし最高気温が10℃だったらしい。明日は19℃ぐらいになるらしい。凹のへこみの部分。だから気がふさぐ。自分がやることなすことの全部がまちがえてるような気がしだす(実際は8割ぐらいだろうから大体合ってる、という気もしだす)し、目標があるのにそれに向かってうまく前進できてないように思えてくる。
でもだからと言って、現状についてまったく新しくてずば抜けて正しいような解決方法を見つけ出すことはできない。今やっていることは、自分の現状からしてそれなりに適切だし、それなりにうまく進んでいると思う。だったら気にしないでやることをやれ、という話だし実際そのとおりだけど、そういう判断にお構いなく圧がやってくる。ようやく話が盛り上がってきたところにいきなり10tトラックが突っ込んでくるような感じに、落ち込みの圧がドスっとやってくる。そんなんなら避けようがないんだから気にしても仕方ないですね。完。
最近、宇多田ヒカルよりも chelmico の曲の方が元気もらえる。宇多田ヒカルの曲にはこれまで関係における温かさやまっすぐさをたくさんわからせてもらったし何度も励まされた。ほんとに何度も。でも最近はなんかわからなくなり、曲を聴いても心が動かされなくなった。嫌いになったとかじゃない。元々わかってなかっただろうけど、はっきりわからなくなった感じがする。なんか深夜にイヤホンをつけて自己と向き合いながら聴く感じじゃなくなった。すっかり他人になってしまったような感覚だ(当たり前にもとから他人なのに、こう思う自分がこわいね)。まあ宇多田ヒカルもそういうことあるって歌詞に書いてたしそういう時期ってある。
chelmico は “Easy Breezy” っていう映像研のオープニング曲をきっかけに好きになった。いまもその曲が一番好き。他の曲もそうだけど、曲がかっこよくて聴いてて楽しいし、歌詞も低温だけど愉快そうな感じだから、私なりに適当にがんばろうって思える。ありがたい存在。他の曲もいい。助かる。
最近こういう日記になっている。

今日は人参を切った。かなりうまくなったのではないか。しかしまだ丸くできる余地がありそうだし、表面のガタガタも気になる。なお「実録 にんじんを花にする」の方にも更新。

朝からテレビのニュースで、2つ、自分の子供を虐待しつづけたのち、結局殺害した人間の逮捕について知って、普通に気分が悪くなった。子供側からして最悪なのは言うまでもないとして、そういう人間も含めての社会なのだということについて、やってらんね〜よと投げやりな気持ちになってしまう。
それは「その人にも切実な事情があったのですよ」とかで社会として認めてあげるべき行動ではないだろう。でもだからといって、死刑というのも、誰かが執行させられる点や、人間が人間によって命を落とさせられる点においてよくない。
そういう折り合いみたいなものが必要なのはわかっているし、うんざりするからと言って折り合いをやめろとは思わないけど、やっぱりうんざりだ。殺されたらその人間は生きることができない。そんなこともわからない、もしくはわからないフリをするやつがいることについて、受け入れがたい。
嫌だな〜。でもこれは、全世界に対する自分の手の及ばなさについて不満を感じているだけという気もする。それは、日頃の自分が自分としてできることがあまりにも少なすぎることについて、焦っているからかもしれない。
まあそう考えたところでつらいものはつらい。人参を切るのをうまくなったりしよう。
今日は休みとしていたのに、政治のことを漫然と検索してしまった。そういう日もある。新聞記事を読んで絶望的な事態を想像するところから始まった。昨日の日記で「まさかそんなことにならないといいけど」と書いていたことに向かって一歩進んでしまったのではないか(わからんけど)。私はつまらない大学生みたいなフリをやりたかったわけではない。
そのあとウクライナのゼレンスキー大統領が自撮りみたいに撮っている画質の粗い映像を見て、原子力発電所が包囲されている白黒の映像を見て、ウクライナの女性がジョンソン首相に泣きながら訴えるのを見て、日本の元首相がなんか言っとるのをコメント欄が謎に絶賛してるのを見て、首相がサラッと否定するのを見て(※これコメント欄では「頼りない」とか言われていたが、私は今の首相が元首相でなくて岸田首相でほんとよかったなと思う)、なんか知らん議員のZoom画面に猫のしっぽが割り込んでくる映像も見て、イギリスの元気な議長が Order Order 言ってるだけの映像を見たところで YouTube はやめて、あとはソ連の歴史についての本を読んでた。
下斗米伸夫『ソビエト連邦史』。この本自体はおもしろい。革命のとき、労働者はロシア人口全部のうち2%程度しかいなかったらしい。それで、レーニン死後の党内部の抗争を見ても、共産党は議論の内容や人々の生活やなんかよりも人事権が重要な組織であり、結局共産党の人たちは叙任権闘争をやっていたにすぎない、という見方があるらしい。そうかも。しかしそんなことで何が共産主義革命やアホくさいと思う。今も共産主義が抜けただけで体制自体はそんなに変わってないんだろうか。
とにかく、面白い本でなにか詳しくなったような気分にはなれても、いつものような満足感はない。しくみや流れがわかったとして、何になるんだろうとかってつい思ってしまう。まあいつか何かに役立つだろう。
インナーを長袖から袖なしにして薄いセーターで出かけた。さすがに少し寒いけど、まあ歩いていたらあったかくなる程度。本屋に行ったら『物語 ウクライナの歴史』が山積みされていて嫌になった。正しくないとか言いたいわけじゃなくて、ただ私が嫌になった。YouTubeでもおすすめ動画に「何分かでわかるウクライナの歴史」的なのが並んだのを思い出す。はえーよ。いやいいんだけど。嫌いだわ。
帰り道でポテチとランチパックを買ってきて食べてチキンラーメンも食べた。終わりの日。
今日はいつものように家に一日中引きこもっていた。それでも光だけは入ってくるのだけど、朝の光も昼の光もとっくに春の雰囲気だ。玄関の近くにある窓はすりガラスで、朝はそこから布団にいる私のところまで光がさすんだけど、その光がもう、朝からオレンジっぽくてやわらかい、いかにも「お前たち生命を元気にしてみせます」といったような光の具合である。昼は「光って部屋中にみなぎっていくものですから」とまるで普通のことみたいに部屋に入り込んでくるような光になる。じっさい普通のことなので何も悪くはないんだけど。でも私は冬の光が好き。冬の光の方が親しみを向けてこなくて安心する。私とお前が他者であるということがお互い分かっているような感じがする。
ある新聞の速報によると、今日の1時(モスクワでは2日の19時)、ロシアのラブロフ外相が中東カタールの衛星放送局アルジャジーラのインタビューのなかで、第3次世界大戦が起これば「核戦争以外にない」と述べたそうだ。そんなわけないけど、ありえたらどうしようと不安になる。だってウクライナ情勢をけっこう前からぼんやり追っていたのに、さすがに侵攻なんかしないでしょうと正直思っていた。ほんとうに戦争が全世界に広がってしまうのかもしれない。
私が日本に住んでいるからだろうけど、戦争のことをよく思い出す季節は夏だ。思い出すといっても私は体験したわけじゃないし、本やテレビや映画なんかで知ったことを思い出すだけだけど。島国だからなんだろうか。特に、太平洋戦争を取り上げる作品では、いつも兵士は日焼けして黒光りしているし、汗だくだし、蚊に刺されているし、泥まみれであるように思う。兵士が小さい島にいるなら主張の強い花が咲き乱れている。住民が見上げた次の瞬間の、原子爆弾投下のシーンは真っ白になる。そういったことから、戦争を考えるときには眩しくなるようなイメージがある。
だから新聞を読んだり光をぼんやり見たりしてると、自分の明るい光に関するそういう感覚をもとに不吉な連想をしてしまう。でも明るい光は悪くない。戦争を起こす人間だけが悪い。とにかく戦争は全世界でいつも全部まったくやめてほしい。
おととい越生(おごせ。埼玉で川越より西)に行ってきて、山や川沿いをゼェゼェ言いながら歩いてから、ようやく春の天気とかを受け入れる状態になった。私は春のフロアが沸いている感じを受け入れるのに時間がかかる。しばらく「ロード中⋯」で固まっていた。でももういい。春キタってぐらいの軽い気分になれた。梅とかを見たし。
今日は、ただの平日だけど、人参を花にした(更新!)し、まあまあやるべきことも捗った。人参を花にするのは難しいけど、やってるうちに自分の包丁の握り方が変わってきた感じがしてきて嬉しい。料理の練習をしている感じがする。
昨日まで、ここで毎日4コマぐらいのを上げてみていたのは楽しかった。きわめて単純なことしか描いてないのに、描いた翌日の自分が訂正したくてたまらなくなる、という箇所が毎日あった。自分より前の走者(自分)が必ず転ぶつらいリレー。
やっぱり1日で描きあげる方が楽。でも自分で批判するというのは正直あんまりやらない(一気に集中して終わらせるものは達成感がすごく、普段はそれだけでほれぼれしてしまうため…)ので新鮮で楽しかった。
終わりです。なんか前みたいにずっと同じ形式で日記書くのはやめようと思う。ただでさえ自分の心が閉じていってるのを、加速させる感じがするため。