1月21日。晴れ。風が強い。だるい。生理。朝はゆで卵1個。昼は海鮮丼。夜は台湾まぜそば(冷凍食品)。自炊すらしたくないときの食事って大抵こうなる。海鮮丼は高カロリーだけどハンバーガーとかよりはマシだ。台湾まぜそばはレンジで温めただけで当たり前だけど温かくおいしい料理になるので、全く何もしてないわけじゃないという気分になれる。
やることは半分ぐらいしかやってない。しかもTwitter上の戦いを数時間見ていた。終わりの人間。こないだ読み終わった『デジタル・ミニマリスト』という本は、アメリカの大統領選挙に関わるSNSのどよめきに疲れた人に向けて書かれた本で、私はそれを読んで、確かにな〜と思ったはずだった。
強い言葉で言い合う様子は刺激が強いし、新たな情報が追加されて状況が刻々と変化していくし、それらの情報の信頼度は何だか数値化されていくように見える。そんなのを眺めてるのはパチンコをだらだらやってるのと同じなのだ。
そんなことは本を読まなくても感覚として知っている。これは哲学者の思慮を尽くした発言に対して農民が「そんなことワタシがいつもの作業中に考えてることだね」と言い返すやつに近いし全くかっこいいことではないけど。
それにしてもあまりにも見てしまうので、冷静になるために、途中から「Twitter上でレスバすること自体について私は観察して状況を整理している最中なのだ」と思うことにした。
公開処刑というよりは終わりのない決闘を見せられているようだと思った。群と群の。
彼らは観客がいる前提で、強い言葉を浴びせ合う。誰か(誰?)にわかってもらうために相手の卑怯さを指摘し続ける。相手の群を上手にからかってみせると認められる。群それぞれの結束は高まる。そういう行為には終わりが見えない。間を取るやつはサムくて嫌われる。
こう書くと『紅の豚』みたいで、そのようにかわいければいいけど、現実に起きていることであり実際には何もかわいくないし面白くない。私はゴシップ的な特定の個人の本性とかには全員知らない人だし関心がない(運動の終わり方には関心ある)。でもざっくりした感想として一つ挙げると、「キチガイ」呼ばわりを批判とは呼べないと思うので、そういう方向の結論になると良くないと思った。
これを感想と言ったけど私は判定をした気分でもある。全く関係ないし判定する必要もないのに、全部の情報を見て判定したいという衝動があり、私はそれに任せた。生理でイライラしてたのもあるけど。この、自分のなかで生まれた動きがとても原始的だと思った。
なんで関係ない私が判定をしたがるのか。私にもまた特定のムラに属しているという想定があって、それを呼び起こそうとする意識が働いたためだと思う。ここで言うムラというのは空間的に存在するものではなくて、自分の積み上げてきた政治的な判断たちの総体だという気がする。
それでもって、最近の自分がうまく正しく政治をやっていけてんのか、私は衝動的に今回のことを通じて点検しようと動いたのだ。争いによって地図が示されると、自分が今どこにあるのか位置付けやすくなるから。しかも時間の経過とともに状況が変化すると、位置付けも少し変わるかもしれない。学習のポイントが豊富にある。
私は衝動的にこの学習によって社会での生存確率を高めようとしたんだろう。それはたとえば現実の人間が傷ついているのだからと思って理性的に終わらせられはしなかった。原始的な生存本能っぽい感じがした。こういうことをしてるとき本当に心拍数が上昇するし謎の活力が湧く。
『みんな政治でバカになる』では終わりに、バカではなくドジになろうというようなことが書いてあった。生き方としてはそれを目指すのがよいと思うけど、思わず頭がそう動いてしまうのはどうしようもないように感じた。
だから物理的に離れるしかない。今日は早くから用事とボランティアがあったお陰でシャットアウトできた。明日からも工夫しよう。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』ではじめに流れる曲!
今日の日記は大変長くなった。日によってムラがありすぎる。終わり。