11月21日 文字移植

 雨のち晴れ。私の天気の記録は私が外にいた時の天気の様子だから正しくないかも。今日仕事。辞めるって言お〜と思いながら弁当食べてたら咽せて、私には誇りが必要だと思って、権力のある人に無視の人のことをチクった。チクるという行為が無視ぐらいのことにしかやられない。どっちもショボいと思う。

 それより多和田葉子さんの小説が面白い。読んだことない文章で疲れる。掴めたと思ったら掴めない。だからと言って流れていってしまうわけではなく、当たり前みたいに内容が自分に置かれていく感じがする。そういうのってうんざりすることもあるけど、今はそれが楽しい。こういうことを言うと嫌かもしれないけど、昨日風呂に入ったときに『文字移植』という小説に出てくる乳首が四つになる場面を思い出した。もっと細かく言うと自分を見て私四つになってなかったんだと思った。嘘じゃないから。その体験が面白かった。小説ってすごいな〜と思った。

わたしは他人の身になんかなれない。もちろんだからと言ってわたしは自分の中に閉じこもって何も受け止めていないわけではなくて少なくとも作者から何かを受け止めているという実感があった。それに受け止めたものを投げ返していないわけでもなかった。ただどこへ向かって何を投げているのかがよく分からないだけだった。

多和田葉子「文字移植」(同『かかとを失くして 三人関係 文字移植』p.180 講談社文芸文庫 2014年)より

 それで今日これを読めて良かった。どこに向かって投げてるのか分かってないから面白いのかも。現実で目前の人からされたら嫌だなと思うけど、そういう風にばっかり考えて死ぬのは嫌だ。

7月16日 くろまる

 7月16日。曇りほとんど雨。じめついている。肩こりがひどい。朝昼はおにぎりとパン。夜は米とインスタント味噌汁とスチームささみ・キャベツ・ブロ(ブロッコリーをブロと呼ぶのが流行っている)。ガスの人が来てくれた。まだいろいろ続くっぽい。

 近所の喫茶店に行く。一人の店員さんは元気を出したいのか元気すぎるのか、ものを運ぶときしょっちゅう「よし!」と言う。それを近くで聞いていると、なんか私にできることがありますかという気分にさせられる。そんなわけないけどそう思う。お礼とかをハキハキしゃべっとく。

 ルンバが来た。プライムデーの影響で。黒くて丸いので「くろまる」と名づけた。かわいいよね。思ってたよりうるさくないし賢く動いてくれて助かった。アレクサも来たので、部屋の文明が一気に進展した。でも一方で風呂はバランス釜であったりするので、そのいびつさで何か問題が起きたらおもしろい。

 今日は、中北浩爾『自民党 ―「一強」の実像』を読んでた。中公新書。今のところ一章を読み終わっただけ。派閥がどう弱まっていったかがまず書いてあっておもしろかった。私はかつてかなり安易に中選挙区制にしてみようぜとか言っていたな。

 22時から坂元裕二脚本で仲野太賀出演のドラマがあるらしく覚えてたら観たい。おわり。

3月4日 なげー

 今日は休みとしていたのに、政治のことを漫然と検索してしまった。そういう日もある。新聞記事を読んで絶望的な事態を想像するところから始まった。昨日の日記で「まさかそんなことにならないといいけど」と書いていたことに向かって一歩進んでしまったのではないか(わからんけど)。私はつまらない大学生みたいなフリをやりたかったわけではない。

 そのあとウクライナのゼレンスキー大統領が自撮りみたいに撮っている画質の粗い映像を見て、原子力発電所が包囲されている白黒の映像を見て、ウクライナの女性がジョンソン首相に泣きながら訴えるのを見て、日本の元首相がなんか言っとるのをコメント欄が謎に絶賛してるのを見て、首相がサラッと否定するのを見て(※これコメント欄では「頼りない」とか言われていたが、私は今の首相が元首相でなくて岸田首相でほんとよかったなと思う)、なんか知らん議員のZoom画面に猫のしっぽが割り込んでくる映像も見て、イギリスの元気な議長が Order Order 言ってるだけの映像を見たところで YouTube はやめて、あとはソ連の歴史についての本を読んでた。

 下斗米伸夫『ソビエト連邦史』。この本自体はおもしろい。革命のとき、労働者はロシア人口全部のうち2%程度しかいなかったらしい。それで、レーニン死後の党内部の抗争を見ても、共産党は議論の内容や人々の生活やなんかよりも人事権が重要な組織であり、結局共産党の人たちは叙任権闘争をやっていたにすぎない、という見方があるらしい。そうかも。しかしそんなことで何が共産主義革命やアホくさいと思う。今も共産主義が抜けただけで体制自体はそんなに変わってないんだろうか。

 とにかく、面白い本でなにか詳しくなったような気分にはなれても、いつものような満足感はない。しくみや流れがわかったとして、何になるんだろうとかってつい思ってしまう。まあいつか何かに役立つだろう。

 インナーを長袖から袖なしにして薄いセーターで出かけた。さすがに少し寒いけど、まあ歩いていたらあったかくなる程度。本屋に行ったら『物語 ウクライナの歴史』が山積みされていて嫌になった。正しくないとか言いたいわけじゃなくて、ただ私が嫌になった。YouTubeでもおすすめ動画に「何分かでわかるウクライナの歴史」的なのが並んだのを思い出す。はえーよ。いやいいんだけど。嫌いだわ。

 帰り道でポテチとランチパックを買ってきて食べてチキンラーメンも食べた。終わりの日。

2月5日 尊敬学

 2月5日土曜日。曇り。なんか昨日より寒い。朝は昨日のスープ。昼はうまかっちゃんと茹で卵。夜は米と中華スープ(ムネ肉・わかめ・ネギ)と焼きキャベツ。バター醤油。

焼きキャベツ

 焼きキャベツはバター醤油でおいしい雰囲気になったけど、芯がうまく焼けていなかった。居酒屋でおいしい焼きキャベツが当たり前に出されることに感謝しようと思った。

 今日も何もない。

 そういえば三島由紀夫の『反貞女大学』を読み終わった。雑なことをサラサラ言われるとおもしろく思ってしまうのはやめられない。本の前半は女について雑なことを言い、後半は男について雑なことを言っている。いや無いわっていうのとそれはそうかもってのが混ざっていて楽しい。私はやっぱり前半の方がおもしろかった。特に第十三講の「尊敬学」。以下引用。

‪ ⋯知的女性は、やたらむしょうに「先生」をほしがりはじめるのです。有益な「先生」のお話を聞きたがったり、えらい「先生」のお弟子になったりしたがる。

 こんなわけで、性的魅力の一トかけらもない、しょぼくれた先生方が、講演会めぐりに忙殺されたり、美しい女弟子たちに囲まれたりする。こんな先生方は、男としての動物の美しさをみじんも持っていないだけに、かえって、女性たちを安心させ、尊敬の対象として選ばれることになる。それをまちがえて、自分が女にもてるとがんこに信じている先生方は数多い。

三島由紀夫『反貞女大学』ちくま文庫、1994年

 「知的女性」かどうかはさておき、私も最近まで自分が知りたいことについては何でも「先生」を欲していたし、それにたとえば歳上の同僚に対して「先生」的ふるまいを求めるところがあった。どちらも私の「ちがうなら教えてほしい」「”道”を知りたい」という強い気持ちから来ていたと思う。

 しかしこの引用部分を読んでると、(やっぱり性別は関係なくないか?とも思えてくるけど、)私には人と関わるとき相手を尊敬していたいというのも強くある気がしてきた。関わる相手のことを「あなたはすごい」って思ってたい。

 だからって私は基本的に人のことを褒めすぎかもしれない。ムリヤリ「褒め」を見出してるわけじゃなくて本当にそう思って言ってるけど、そういうのって自他への態度を自ずから決めていってるんだろう。なんか気をつけてみようと思った。

1月12日 『音楽』みた

 1月12日。晴れ(たぶん)。外出せず。朝はゆで卵。昼は海鮮丼。夜はサンドウィッチ2個。食欲のすごい一日だった。やる予定のことともう少しやった。今日はなんか楽しくやれた。

 『音楽』をアマプラで観た。この予告編、実際のと比べてテンポがはやすぎる。

 坂本慎太郎が主人公の声をやってると聞いて観た。70分ぐらいだった。独特の間で、絵自体がきわめてシンプルなのに、そのまま画面が全く動かないで3秒ぐらい無音、ってことが何度かあって、最初は通信状況が悪いのかと不安になった。

 大画面で観るよりは、パソコンで作業してる時とかに画面の右端で流れてると良さそうと思った。何回か観てるうちに良くなっていきそう。配信するからガンガン観ろ!という時代に、そういうものが作られて、坂本慎太郎が参加したことが嬉しい。

 先々月に Netflix を解約して、何も困らなかったし、寧ろ「解約したけど何も困らね〜」で得した気分になっている。

 そういう勢いを進めるために、この頃『デジタル・ミニマリスト』という本を読んでいる。30日スマホから必要ないアプリとかを消してみて、自分の生活に必要なものを吟味しよう!っていう。その提案を美化するために大事そうなフレーズとしては、「意図は利便性に勝るという信念に賭ける」というのだろうか。

 これは賭けたい。昨年から身の丈に合った生き方がしたいと思うようになったし、私はそういう価値観が好きなんだろう。好きといってもまだ取り込みとしてはペラく、体現できてない感覚がある。とりあえずやるべきことをやろうと思う。

カノ

 12月22日。晴れ。比較的あたたかい一日。朝起きたらとりあえずベランダに出てみる。奥の半分ぐらいが明るい。通行人を見て、昨日読んだ『明日、私は誰かのカノジョ』をぼんやり思い出す。

 この漫画は若い女性に人気らしくて、今の時代に女性からかっこいいとされる人物像ってこうなのか、と面白かった。

 何巻かずつで主役が分かれるんだけど、それぞれに新しさを感じた。彼女たちは仲良し三人組で進んでいくみたいな生き方はしないし、かといって個人と個人が嫉妬とか憎悪で真正面から対立するわけでもない。

 話の展開も気になった。それぞれに辛かった過去があるにはあるけど、そこに重点は置かれず、あくまで現在の彼女たちが外づらに対する責任を引き受けようとする姿勢について強めに表現されている。

 あと、登場人物が能力や性格でキャラ付けされるのではなく、それぞれの立場でどう意地を見せるかでキャラが出ている感じがする。その辺りにかっこよさがあるなと私は思った。

 私は過去のことを軸に考えるのが好きだけど、今後どうしていたいのかを軸に考えるのはほんと大事なことだと思う。まだ途中までしか読んでないのでこれからどうなるか分からないけど楽しみ。

 朝食は昨日のささみの味噌汁。昼は冷凍食品の坦々麺。夜はツナマヨおにぎりと味噌汁。作業したし出かけた。喫茶店とでかい本屋。全ていつも通り。終わり。

日記

 12月17日。雨のち曇り。胃腸がこのところ弱っている。言いたいことがないけど日記を書く内なる流れを失いそうなので書く。

 『貧民の帝都』という本を読んでいる。近世・近代の貧民がどのように救済されてきたか(されてこなかったか)という話。著者はその近世・近代のことについて、怒り口調で、まるで現代のことであるかのように、許されないとか書いている。

 それが何でなのかが気になってたけど、ひとつ思いついたのは、現在に残っている差別につながる話を詳細に書くにあたり、怒りに任せて紹介しているという体をとってるんだろうか。許してはならないということを強調するために。なんか一度そう思うとそうでしかないような気がしてくる。

 中身としてはタイトル通り、東京の各地にあった救貧施設などについて紹介される。

 本によると、江戸城が無血開城されたあとの1ヶ月半ぐらいは空き家になっていて、そこにいろんな人が忍び込んで、泊まってみたりしていたらしい。楽しそう。もし明日から皇居が空き地になるとしたら1泊してみたいけど、天皇の寝床は最強の人間が使うことになるのだろうから、松の間で雑魚寝するのが関の山だろうな。

 冷え込んできた。さっきまで風が強かった。遮熱をかなりやったのに通り抜けてくる。明日は出かける。

よかった本2021

 2021年に読んだ本で、折にふれて思い出すようなもの。4冊・順不同。全部おもしろかった。

1)綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社 2019年)

 私自身がかなり「差別はいけない」と主張するタイプでありながら、そう主張するたびに無力感も生まれて、それがどこから来るのか知りたくて読んだ。

 要約。まずアイデンティティ(→民主主義 →集団)とシティズンシップ(→自由主義 →個人)の克服しがたい対立について欧米各国の例を挙げながら説明したのち、戦後日本の歴史問題についても、戦争責任をどのように負うべきかにおいてその対立が見てとれるとする。

 そしてハラスメント防止の話から、不快だと感じるものが人によって違うのはなぜかという話にうつり、「認知バイアス」や「道徳基盤理論」の考え方を紹介する。それらを踏まえ、人種や性別の差異にもとづく合理的差別のあり方や不平等を是正する運動の難しさを検討する。

 さらに直近の炎上した話題を取り上げ、もし差別が意図的なものでないとみなすのであれば、彼らはその責任を取りきれないのだから、自律的な個人の意志を前提にする社会をやめていく選択肢もあるだろう、とする。

 個人の意志をないものとするか、ポリコレによる私刑を許し「責任のインフレ」に耐え続けるか。そのどちらも望まないのであれば、著者は、相手の責任を追及する前に、まず不快さを言語化してみるということをやるべきではないかと提案する。

 最後、民主主義(アイデンティティ)と自由主義(シティズンシップ)の対立の調整を果たすものとして、天皇制についてもまとめている。

 感想。いつも私が読む本と比べてかなり慎重に書かれていて、引用が多く、鉤括弧が多く、主張も簡単には見えづらい。だから読むのにすごく時間がかかったけど、自分が社会問題について不快になったときや、自分の主張がなぜ通らないのかもどかしさを感じるときに、それを落ち着いて整理するための材料がたくさん整理されていて、ありがたかった。私も私ながら粛々と勉強していこうという気持ちにもなったし。

 あと、他者に何か道義的責任を負わせるのは難しいんだろうなと思う一方で、そのことがわかった上でも私自身の意志は尊重されてほしいし、その責任は取りたいと思った。

 で、自分の意志を尊重されたいからという理由で他人の意志を尊重するとして、そのときに他人の責任を追及してむやみに私的制裁を下しさえしなければ、それで良いのだろうか。責任ってむずかしーと思った。

書き込むのが嫌でこんなふうに付箋でやってきてたけど、あとで付箋をもとにして振り返るのダルいし、どうせ売らないので、書き込んでいったほうが楽とわかった

2)宇野重規『トクヴィル』(講談社学術文庫 2019年)

 西洋政治思想のことが分からないので、人物から追うやつで短いのがいいと思って、これになった。宇野重規さん文章が読みやすいし話もわかりやすい。

 トクヴィルは、フランス革命のあとの権力基盤の不安定になった貴族のおうちに生まれたフランスの政治思想家(1805-59)。フランスよりはアメリカで有名で(今は特に「知的右派のお気に入り」で)、アメリカの大統領演説では必ずと言っていいほどその著作が引用されるらしい。

 彼は革命に嫌悪感のあった貴族の出にもかかわらず、フランス革命の様子を見て「デモクラシーは歴史的必然として受け入れなければならない」と考えて、アメリカに出向き、アメリカの政治のやり方をデモクラシーの成功例としてフランスで紹介した。

 何が成功してるのかの一例として、デモクラシーは個人化や多数の暴政をどうしても起こすけど、アメリカでは、それらを防ぐために各地で人々が積極的に結社して中間団体を生んでいることを彼は挙げていた。それがとくに私には印象的だった。

 これまで私は何となく個人主義が一人ひとり徹底できれば社会はよくなると考えていた。でもさっきの本とかこの本を読んで、あとこないだの選挙結果も、コロナ禍によって明らかに孤立させられた人間に会うなんて機会もあった。

 これらの出来事から、自分の寿命に比して、個人という存在を過剰に信頼していた気がしてきた。一人ひとり同じだけの人権があるはずだといわれたときに、不安になる人も少なくなさそうなのだ。だとしたらどうするのがいいのか。生活における価値観が変わる読書だったと思う。

振り返るときの楽さを重視しすぎた例

3)ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮クレストブックス 2012年)

 小説。嫌なやつが主人公。私も嫌なやつなので嫌な主人公のせいで嫌なことを思い出しながら読んで、読めば読むほど嫌な思いをした。記憶と記録の話。面白かった。嫌だった。

4)大竹文雄『競争と公平感』(中公新書 2010年)

 今年は経済のことを知りたくていろいろ入門を読んだ中で、一番うざくなくて、読みやすくて、面白かった。経済学がデータをもとにしてものを考えるというときのやり方が、自分では思いつかないことで、刺激的だった。データ自体が研究の材料になる前提で作られてるってのもあるんだろうな。

 今年は戦後史関係の新書もいくつか読んで、全部ではないけど己の誠実さを強調するあまり説明が足りないのが多くて、いいからそういうの‪⋯と思ったりしたんだけど、そういう遠慮がないのは経済学のいいところだなと思った。

 本は、一章が競争について、二章が公平感について、三章がそれらをもとにした働きやすさについて考えるもの。

 全体を通して相関と因果の違いについて強調しながら、社会問題や政治のトピックについて「最低賃金を上げすぎるとレジが無人になって雇用が減る」とか「ワーカホリックを抑制する理由は他の人員に迷惑をかけていない限り、ない」とかを示して、淡々と深めていく感じ。

 私は経済について知らなすぎて、少し経済について学ぶ機会があったとしても、それが日常に生かされてこなかった。だからそういう時事に関心を持とうとしては挫折してきたけど、この本で「この条件を設けるとこういう結果になる」っていう判断のいきさつを丁寧に教えてもらった感じがするので、色々とっかかりになった。街づくりゲームをやりまくってたこともあって面白く読めた。

 ■

 4冊は以上。なんか最初の本に時間がかかりすぎた。付箋だけで何が大事と思ったか思い出すのはつらい。

 よかった本を見るに、私は「私ってバカだな〜」と思えた本をよかったと思う。私には、例えば日常において「自分のこういうところ嫌だな」と思うことがあったら、その “こういうところ” をできるだけ細かく知って、いつでも心から切り離せるようにしておきたいという欲がある。

 多分そういう態度が滲み出て冷笑とかいわれるんだろうし、ネチネチ鬱陶しいとか思われるんだけど、読書している間はそれで楽しいんだからやむをえない。

 ずっと浅く大二病なんだと思う。もう黙ってやってればいいよ。性格は20歳から変わらないらしいしもう20代が終わるし。みっともないけどしかたない。

 来年も面白い本にたくさん出会えたらうれしい。

蒸し

朝・昼 やわらか鶏むねに成功
夜 汁がほっとくとすぐ蒸発する

 11月21日。曇りのち雨。久しぶりに雨が降ったと思う。昨日のことを修正するために野菜を食べることにする。先日この記事(貧乏だから野菜が食えないとかいうのは毎晩蒸し野菜を食わないやつの戯言にすぎない・春)を読んでキャベツ等を買ってきたし準備はある。

 朝からキャベツと鶏むねとその他野菜をあわせて蒸した。おいしくなった。あと、スチーマーを洗うのがめんどくなってたんだけど、野菜のおかげで油やカスが器にへばりつきにくくなって、洗いやすくなった。やってよかった。

 食べながら昨日のことを修正するために何をするのがいいだろうと考え、お祈りされてても困るから転職サイトは見ないことにして、中山きんにくんのYouTubeを流し聴きしながら準備して、外出することにした。雨が降りそうだったので知らない駅で降りるのはやめといて、結局いつもの喫茶店。

 今日の本。トクヴィルについて。トクヴィルはフランス革命後に貴族の家に生まれた政治思想家。政治思想とか読んでこなかったのでおもしろい。

 平等を志向する社会では、個人が他人と同等の権利を持つことを主張できるけど、それは一方で他人に優越することを主張する権利はないということであり、外から自分を見つめたときに自分の代わり映えのなさに気付き、無力感に苛まれて、自分と同じ人たちを合わせた「総体」に対して権威を求めはじめる。という話から読み始めた。

 昨日の私が感じた「相手に責める所もなく、私にもないけど、私がつらい気持ちになる」ことの嫌さも近いところにあるような気がする。まだうまく言えないけど。恣意的な「総体」を見せられて、自分を強制的にその総体に位置づけさせられるような感覚があった。こう書いてみるとよくあることだ。

 こういう、日頃の嫌さが本に吸収されていくのが読書の良いところのひとつだと思う。嫌さが自分の文脈から抜きだされて標本になる感じというか。だらだら読んでるうちに気分が均されていくのがわかった。

お湯

朝 バナナ
昼 うどん
夜 うどんとおにぎり

 11月18日。曇り。今日は休む。起きてバナナ食べて筋トレ。背中の汗かくやつはやらない。プロテインあるけど不味くて飲まない。

 外出。1時間ぐらい近所を散歩。都市のお買い物ゾーンにいるとお買い物しなければならない気がしてきて、嫌なので、お買い物ゾーンを避けて歩く。避けて歩いてるうちに首都高のそばに着くことが多い。首都高って脈っぽいし龍っぽいしかっこいい。

 歩くの飽きたら喫茶店。隣の隣に座っている若者ふたりが政治談義している中で『みんな政治でバカになる』を読み終わった。「」とか引用が多いけど、引用された文章は面白いし、『差別は〜』とか雑誌記事を読んでいたこともあり、内容はつかみやすかった。正直タイトルで一瞬買うのためらったけど、文章はずっと丁寧だった。

 主旨は、左派・右派などがそれぞれ作っている「道徳部族」の対立がどのように生まれていて、それをどのように乗り越えていくか、というところではないかと思う。

 私は最近、SNS上での政治運動などをどう把握して、どう関わっていったらいいのか不安でイラついていたんだけど、それに対してひとつ、人をバカにしない形での軸をもらえた気がする。“バカの居直りでもなく、シニカルな冷笑主義でもない” 態度をめざすこと。勉強になるだけじゃなく、気持ちとしても読んでよかった。

 夜はファミレスで雑炊を食べようとした。ドリンクバーも頼み、お湯を飲みながら、前の道路が揺れると店も揺れて、それがいいわねとかってしみじみ楽しんでいた。

 でも1時間待っても雑炊が来なくて、聞いてみたら注文が通ってなかったので、もう待てない気がして、キャンセルして帰ってきた。なんかすごく深々とお辞儀されて、大丈夫っす大丈夫っすと言って、店員さんにさりげなく出口まで誘導され、出てきた。しかし空腹でたまらない。それでコンビニに行ったにしては理性的な食事だった(うどんとおにぎり)。

 明日は家で過ごす。